電気やインターネット、道路や飛行機など、毎日続けて使えなくてはならないものが登場してから、それらに携わる人々はどうにかして毎日使えるように保っている。
毎日使えないと、使おうと思ったときに使えた人と使えなかった人の間で意図した結果が得られるかどうかの差異が出て、ずるいとか不公平みたいな気持ちになるので、そういうことにならないようにしたい/してほしい、ということなのではないか、と個人的には思っている。
とはいえ不公平がこの世からなくなることはおそらくなくて、というのは例えば天災などは避けられないなどがある。天災を公平に起こすようにお願いする先は無いので、みんな諦めて/許しているのではないか、と個人的には思っている。
人為的な不公平もなくなることはおそらくなくて、というのは例えばその日の気分によって掛ける言葉が変わるなどがある。この場合は公平にするようにお願いする先があるけど、程度がひどくなければ許している、と個人的には思っている(程度がひどい場合は許さずに言うかもしれない、そのときに公平にできるかどうかは微妙なところだと思う)。
この許せる程度というのが変わってきて、少しでも不公平があるとひどいと感じるようになっているのでは、と個人的には思っていて、例えば電車が5分遅れてしまったので待ち合わせに間に合えなかったなどがある。
個人的な願望として、みんながお互いに全ての不公平を許す暮らしがしたいというのがある。道路の端っこが壊れていて転んでも、まあすぐ直せるわけでもなし、傷も小さいしすぐ治る、と許す。外国での一世一代の大仕事の話をもらったのに、たまたま飛行機が飛ばない決まりの日があったとしても、まあ船で行けるかな、あるいはまた今度の仕事を受けるかな、と許す。つまり、人の事情で何かができないのは、天災と同じで、世界の動きの上での運みたいなものだから、許す、という気持ちで暮らしたい、ということ。
それが叶わないのは、人間にはいわゆる悪い心みたいなのがあって、事情を許してくれるなら何にもしないでも許してくれ、など、自分が他人を許すことができない人がただ得をすることになるから、と個人的には思っている。感情のまま言葉を掛けても許してほしいとか、畑に来て野菜全部食べたいのでほしいとか、そういうことを許すことになって破綻してしまう。
いわゆる悪い心みたいなものを制御するために、決まりをつくって、決まりから外れたら不公平になる、ということにしてなんとか生活をしようとしているのが今だと個人的には思っている。それでも完全には制御できていないし、完全に制御できることが人間の生活として"良い"としていいのかなど、解決しない議論が沢山あると個人的には思っているので、ままならないなと思いつつ、願望をどこかの片隅にしまって生活している。