blog.3qe.us
世間の言説はさておきとにかく自分は大切なものであるというのが良かった。そう信じていくしかないなと度々思う。凹むと生きる意味とかを考えるし、しかしそこに明確な答えはなく、論理的に根拠を持って生きることができないため、無条件に生きることは良いと (定理ではなく公理として) 持つしかないなと思っている。
AI の席巻によって気分が滅しているのも共感しつつ、自分のできることを AI が颯爽とやっていくことに無力を感じる一方で、よく見ると品質がまだまだであることにも幻滅する日々を送っている。まあしかしこれは時間の問題ではあると思う。たとえば最近のプラ製品にはバリが残りまくっていて指を怪我することが多いが、昔はそんなことなかったな (実際なかったり、実はあったりしただろうけど、そう記憶しているということ) と思う。でも安価に高速に生産するには、いちいち手で持つ場所のバリを取ることができないんだろう、十分安いし許す、というような、許すというよりは諦めるような感覚がある。これがゆくゆく AI に対しても起きるだろうと思って、品質が8割程度でも、量がすさまじいことによって人々がなあなあで許容していくのだろうという、残念さや寂しさを感じる。これが最近は最も自分を幻滅させている。
またそういう劇的な過渡期にある AI を、それでもうまく使えることが求められており、しかし AI は機械で道具であるから、うまく使えなかったら自分の使い方が悪いと評価される。この、うまく使えていない自分のせいという、いわゆる自分を映す鏡のように AI が振る舞っているのが、自分をなんとも歪んで映して悲しくなる。本当は色々心配したり考えたりできているはずなのに、それらが抜け落ちた品質 6割の出力をされて、それが自分であると暗に諭されてしまう。そんなものを見ながら、そうではないはずだとレビューして直すのが務めだとなると、これもまた必死に取り繕うように感じられて、しゃんと立てていない。自分なら最初からもっと良いものを書けるのに、とだけ言うが、もちろん AI よりもずっと時間がかかるので、それをやりきる自信もあまりない。こんだけ時間かかってこれ? AI ならもっとすぐいいの出してくるよ、と言われることを (誰からとなく) 恐れているから。
こういったイメージは自分が勝手に持っているもので、少なくとも今いる職場では周りからそんな変な評価はされないし、 AI は自分を映しているわけではない (少なくともモデルは自分を元にしていない)。だから、一定の価値のあることを自分ができると信じることや、世間と一括りにするのをやめて周りの個々人をよく見てそれぞれを信じて大事にすることなど、自分の打ちひしがれて以来の認識を少し冷静に是正していく必要がある時期なのだ、と思うようにしている。かつて計算機に対して想像もしなかったことが起きているので、つまり今もどこかで想像もしないことが起きまくっているのでは? その中のひとつとして、自分の考えが及ばないところで自分の価値は落ちているのでは? と思いそうになるが、 (相対的にどう評価されるかはさておき) 自分の絶対的な人生というものは、生きていれば依然そこにある。 10進数を使っていると桁が増えて驚くが数直線の上ではただ 1 の差であることに変わりがないというような、世紀末というと驚くが地球の自転公転に区切りは特にないというような、絶対的な振る舞いは常に価値があると信じたい。
AI がうまくやっても下手をやっても、自分は自分であって、かわりに凹んでやる義理はない。うまく使えたら嬉しいね、というような考え方で十分かなと思い始めている (まだ染み付いた恐怖は拭いきれていないが……)。
あと、速さを求めてある程度の品質でけりをつける仕事などでない、自分の趣味であれば、 AI ができることでも、誰ができることでも、自分がやって楽しいことをやっていいというのは別に覚えておきたい。プロサッカー選手のほうがサッカーはうまいが、誰でもサッカーをしてもいい。楽しむことが目的であるから。