hogashi.*

日記から何から

日記

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 今日はなぜかかなり滅入っていて、ひとまず歩くかと思って外に出たけど、目当ての店は閉まっており、そうか〜とか言いながら川まで来たりしている。下りたらところどころ花火の煙が上がっていて、地面から蛙と虫の声がして、水が背景になっていた。

 目に映る景色のうち、かなりのものが残せるようになった。言葉は元より、写真も技術の進歩が進み、きめ細かで鮮やかな場面を切り取る。切り取ってからさらに手を入れている、という非難もあるけど、少なくとも自分がそのときを思い出すための道具としてならどうあってもいいと勝手に思っている。

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 まだ難しいなと感じるのは連続したシーンで、録画などをしてもあまりしっくりこないことが多い。どちらかといえば、その残した録画を見たときに、当時のハッとした心持ちを思い出せない。これは、技術的に写真ほど細やかに残らないからなのか、残してみるとなんだそんなものかとなってしまうからなのかわからない。後者は写真にも少し感じるものだけど、動画で顕著だと感じる。

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 ところで、普段おもしろいと感じるときのひとつに、わからない部分がある光景を、自分の頭の引き出しをどんどん開けて理解しようとするとき、があるのではないかと思っている。落語を見て実際のシーンを勝手に思い浮かべるのが典型的だけど、映画でも速さや重さなどをイメージして確かに疲れそうと考えたりする。

 似た話題で、録画に対して考える余地を見出だせず、つまり記憶を呼び起こせないので、当時の気持ちとずれるのかも、と考えることはできそう。写真は時間の軸の分の余地があるので、より思い出す余地が残されているということになる。

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 情報量が減ればよいというものではなくて、それぞれの量によって生まれる余地が変わりそう。言葉だけなら色も想像することになるし、録画でも気温やその前後なども思い浮かべられるはずではある。個人的に今そのバランスが合うのが言葉〜落語〜写真くらいなのかな、と思った。

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 結局今日は渡ったことのない橋を渡れたので収穫があった。そのうちパックマンみたいに歩き尽くしてしまうだろうけど、幸いこちらは忘れることができるし、意外と道の様子ががらりと変わることもあるはず。ここに楽しむ余地がある。

 

>はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」