hogashi.*

日記から何から

サージェント・ペパーズ

 中学生の頃、親からビートルズの話を聞いて、曲を聞くようになった。親に言って、レンタル店で CD を借りて盛んに聞いた。次第にメンバーの名前と顔と声を覚え、 CD についているパンフレットで当時の様々な話を読んだ。 Beatles For Sale はレンタルではなく購入してもらい、付録のコメンタリーを見た。何がうまく行ったとか、どの曲はこうして生まれたとか、誰と誰が喧嘩したとか、少し昔だからこその出来事からよくありそうなことまで、やっぱり生きていた人だったのだな、と思ったのを覚えている。

 父親は、家にレコードがあったり、学校で放送室からかかったりして聞いていたらしい。実際にテレビなどでも見たのであろう、ライブの映像などは記憶に残っていると言っていた。 4人が生きている時代に生きていて、曲を聞いていたのか、と羨ましさと不思議さを感じた。

 CD などから得た知識は、父親は大抵知らない。話をしているとよくわかる。歌詞などもちゃんと知っているわけではない (単に英語にあまり馴染みがない人である)。だから、たまに得意になって教えていたこともあった。

 サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド以降は、ビートルズは表に出なくなっていく。僕は詳しくはないが、そう書いてあるものがあった。だから、あの CD で聞ける喧騒や歓声などは、その演奏に対するものではなく、他の録音などであるという。ところが、父親は、あの歓声に思いを馳せて、「笑い声がするところでは、誰かが何かおもしろい動きをしたのだろうな」などと言う。とても楽しそうに語るのだ。おもしろおかしくライブをやったのだろう、と。

 僕は、父親の話を静かに聞いた。ライブなどやっていないのだ、録音なのだと伝えることはしなかった。曲を聞き始めてから 1年ほど経って、知識を見せびらかすようなことがかえって恥ずかしくなってきた頃なので、なおさらではある。とにかく楽しそうな父親に、咎めるように話をしたくなかったのだ。

 それで良いと思っている。何せ、僕の知識も受け売りなのだ。 CD のパンフレットが、コメンタリーが、事実かどうかもわからないし、事実であってもどうでもいいのだ。それが、何というわけではない。

 父親は、このブログを、知っていることは知っているので、もし見ていたら、話を知っていながら曖昧に流したこと、今がっかりさせたことを申し訳ないと思っている。

 電気やインターネット、道路や飛行機など、毎日続けて使えなくてはならないものが登場してから、それらに携わる人々はどうにかして毎日使えるように保っている。
 毎日使えないと、使おうと思ったときに使えた人と使えなかった人の間で意図した結果が得られるかどうかの差異が出て、ずるいとか不公平みたいな気持ちになるので、そういうことにならないようにしたい/してほしい、ということなのではないか、と個人的には思っている。
 とはいえ不公平がこの世からなくなることはおそらくなくて、というのは例えば天災などは避けられないなどがある。天災を公平に起こすようにお願いする先は無いので、みんな諦めて/許しているのではないか、と個人的には思っている。
 人為的な不公平もなくなることはおそらくなくて、というのは例えばその日の気分によって掛ける言葉が変わるなどがある。この場合は公平にするようにお願いする先があるけど、程度がひどくなければ許している、と個人的には思っている(程度がひどい場合は許さずに言うかもしれない、そのときに公平にできるかどうかは微妙なところだと思う)。
 この許せる程度というのが変わってきて、少しでも不公平があるとひどいと感じるようになっているのでは、と個人的には思っていて、例えば電車が5分遅れてしまったので待ち合わせに間に合えなかったなどがある。
 個人的な願望として、みんながお互いに全ての不公平を許す暮らしがしたいというのがある。道路の端っこが壊れていて転んでも、まあすぐ直せるわけでもなし、傷も小さいしすぐ治る、と許す。外国での一世一代の大仕事の話をもらったのに、たまたま飛行機が飛ばない決まりの日があったとしても、まあ船で行けるかな、あるいはまた今度の仕事を受けるかな、と許す。つまり、人の事情で何かができないのは、天災と同じで、世界の動きの上での運みたいなものだから、許す、という気持ちで暮らしたい、ということ。
 それが叶わないのは、人間にはいわゆる悪い心みたいなのがあって、事情を許してくれるなら何にもしないでも許してくれ、など、自分が他人を許すことができない人がただ得をすることになるから、と個人的には思っている。感情のまま言葉を掛けても許してほしいとか、畑に来て野菜全部食べたいのでほしいとか、そういうことを許すことになって破綻してしまう。
 いわゆる悪い心みたいなものを制御するために、決まりをつくって、決まりから外れたら不公平になる、ということにしてなんとか生活をしようとしているのが今だと個人的には思っている。それでも完全には制御できていないし、完全に制御できることが人間の生活として"良い"としていいのかなど、解決しない議論が沢山あると個人的には思っているので、ままならないなと思いつつ、願望をどこかの片隅にしまって生活している。

無思考

 親が TV で見ていたのが AI ロボットだと言うので、 AI はどこに使っているのか聞いたところ、それはわからない、ということだったので無思考さに深く絶望した。自分もまたそういう無思考を様々なことについて日々やっているのだろうなとも思い至って深く深く絶望している。

サーモンランを雰囲気でやる

 それなりにサーモンランをやっているけど、世の人がやっているほど真面目に考えてやってはいない。たとえば、この動きに何秒かかるとか、敵の体力とブキの兼ね合いとか、一番速い移動はこれだとか、最短手はこれだとかを考えていない。やっていて、これはなんかうまく行かないな、と思うものはなんとなく模索していて、まあこれでよいのでは?と思いながら、毎回それができなくてもまあよし、という気楽な感じ。このブキは撃つまでになんか時間かかるなと思うときというのは敵前に飛び込んで(いわゆる)死んだときで、今度はワンテンポ先に撃ち始めておいてなんとか間に合わせたいなとか思うくらい。あとは感覚でやっていて、こんな感じでボムを投げると入るとか、このくらいのチャージで一撃で倒せるとかを数値に落としたりせずになんとなくやっている。
 数値に落としてバッチリ覚えてきっかり動けたらそれは楽しいだろうなとは思うものの、現実そんなに覚えられなくて、数値に起こすのも難しいし面倒。もらえる報酬のためにやっていたらもっときっちりやるのかなと思うけど、報酬なんて目当てではなくて、サーモンランをやるのが目当てなので、それほどの動機がない。
 いずれにしても面白いのは、ランダム性がめちゃめちゃ高いところだと思っている。たとえば、テトリスは次に来るブロックがランダムだけど、種類は高々両手ほどしかない。比べてサーモンランは、大きな敵が両手ほど居て、ある程度決まった位置にランダムな種類が出る。加えて、3種類の小さな敵が、なんとなく決まったような位置から無限に出てくる。しかもそれらは動き方に長い周期の周期性があり(両足で歩く感じ)、プレイヤー4人の動き(インターネット越しの人間の操作はCPUよりよっぽどランダム)に常に関連して機敏に動きを変える。これは予測がとても難しく、たとえば急に背後に居て挟み撃ちされたり、急に段差の上から落ちてきて挟み撃ちされたりする。さらに言うとプレイヤーの受けているダメージ量は数値で見ることができない(エフェクトでなんとなく察する)。あと 1発攻撃を受けて耐えられるかどうか、意外と瞬時にはわからないことが多い。
 というので、様々な種類のランダムが一緒になって、ウワーと言いながらプレイするのがとても楽しい。個人的には、雰囲気でやるほうが楽しめると思っている。

 お仕事の理解が少しずつ進む一方趣味が希薄なのでいよいよいつもお仕事のことを考える期に入ってしまったなという自覚がありよろしくないのでこの暑さでも定時に帰る気持ちになる何かを考えることで紛らわせている。ちなみに数少ない趣味のサーモンランは一番よい時間帯が深夜2時半〜3時なので平日は破滅コースになるため避けている(ブキ編成がよいときは早い時間帯でもやる)。

 

 Mac 普通に使っていると目が疲れるので Night Shift を常時使っているけど終日という設定はなくどうしても 1分間空白ができてしまうので 23:59-0:00 の間だけ元に戻る状態になっており夜ふかしして Mac を触っていると急に白がまっ白くなってびっくりして日付が変わることを知るという生活をしている。

 「やれると思います」って言ってできなかったとき怒られないための逃げ道をつくっても結局できたかどうかなので「やります」って言うほうがやる気になってよい、というのをどこかで読んでそうかもねと思ってしばらくやっていたけど、怒られないためにというよりは自己信頼度に関わる気がしていて、やるって言ったのにできなかったなというので凹むことが多い。インポスターシンドロームは、人を騙してしまったみたいに感じるのもそうだけど、自分を騙してしまったみたいな気持ちのほうが、他の人から気にしないでよいとか言われても自分のことなので効き目がなく、立ち直りづらそう。個人的には実はちゃんとできてたよと言われるのが一番の薬だけど、実際にできてないことのほうが多いので凹む。