外出すると、たいていイヤホンをつけている。これは高校か大学のころに身につけ始めた技で、周りの音を小さくしたり、単に"ながら"にできる時間で曲やポッドキャストを聞いたりすることが積極的な動機。近年気付きつつある消極的な動機に、頭が自由に思考を進めることを抑制するような効果がある。
見知った道で人通りも車通りもなくただ歩く、乗り慣れた電車で座って駅を待つ、というときには、頭が手持ち無沙汰(手?)になり、記憶から様々なことをひっぱり出しては後悔したり、悩むものの踏み切れないことを再認識して堂々巡りになったり、など、傾向として沈んでいくような思考が繰り広げられる。あるいはさらにそれ自体の原因とか解決とかを考えて、想像力とか自己肯定感とかに思い至るけど、どうしたらいいか途方に暮れて、振り出しに戻る。これは子供の頃から考え過ぎだと言われ続けて、未だに克服できていない。イヤホンで何かを流すことは、内容を聞こうが聞くまいが、思考の発展は鈍くなるので、結果的に考え過ぎを防いでいる。
ところでこれは、思考が鈍くなるので、思考の量は減り、記憶も曖昧になる。天気を気にしたり、この後の予定を組み立てたり、買うものを思い出したりが鈍くなり、何を食べてどうだったか、どこを歩いたのか、見えたものは何かを覚えていないことがある(覚えるどころか感じていない可能性もある) *1。特に自分は記憶が下手でよく忘れるのに、これによって輪をかけて覚えていないので、あとで人に聞かれても頭が真っ白になるばかりで何も答えられない。
考え過ぎは良くない、といっても、こんなに考えていない/覚えていないとなると、それはそれで不安になる(イヤホンを外した後に)。過ぎることがよくないのであって、よく考えることは大切なはずなのだけど、その塩梅がうまくいっていない。依然として何か聞いていない時間で考え過ぎている(沈んでいる)自覚もあるし、考えられていないことを思ってさらに自己肯定感が弱くなっていくこともある。
どうするといいかはまとまっていない。根本的には沈むような考え方を変えられるとよいはずだけど、天邪鬼も邪魔をして、一筋縄ではいかない(と思いこんでいる)。自分をよく評価してくれる他人を尊重したいが、傲慢にはなりたくない。
単に自己鍛錬が足りないせいで裏付けを感じられないだけかもしれないので、様々な興味に対してなぜか動かしていない手を動かすのが第一歩かもしれない。もともと変化に対して恐怖と怠惰がある自覚はあって、ここ数年はそれが顕著になっている。なまじ築き上げたものが少しながらあるせいで、守りに徹しているのなら、失敗することでそれらをすぐ失うわけではないと認識する必要があるのかも。あるいは単に実力の無さを自覚したくなくて避けているのなら、せっかく自己肯定感が低い(つまり実態と認識が大体合っている)うちに強い気持ちで認めるとか。そもそも自分のできることを改めて書き出してみるとか。この記事のような思考はできる、からスタートしていることになる。
*1:曲がり角や後方確認はするようにしている。よく考えるとこれはなぜかやれていて、癖なのか致命的だからなのか気になる(確認の精度が落ちている可能性はある)